第68話 : エッセイ
2012/10/28
私の小鳥
  
 
   軒下の睡蓮鉢で飼っていたメダカ達と別れてもうだいぶになる。もはや犬とか猫を飼う気にならず、ついでながら車も持っていない私は、生まれつきのものぐさ人間なのかもしれぬ。過ぐる夏のあの猛暑の中で、何人かの知人の顔が浮かんできて、暑中見舞を出さなきゃと何度か思ったのだが、とうとう何もしないうちに秋が来てしまった。やはり自分はものぐさでその上思いやりの乏しい男なのだ。
   がしかし、本稿はそんな反省から書き始めたのではない。といってメダカと無関係というわけでもない。先日、「おとなのはれ舞台」と銘打った音楽教室の発表会でオカリナを演奏し、いや、吹き、首尾は別として、重かった肩の荷をドスンと地面に置いた心地から本稿を着想したのである。


 
 


   川の中の学校へ通うメダカはいざ知らず、普通のメダカは物を言わず、暴れることも甘えることもない。今風に言うなら、いつも下から目線で私達を見ている。数年間そんなふうにメダカを飼育した中で一番の感動は、朝のエサやりの時、針の先ほどの新生児を水面に見つけてその数をかぞえる喜びだった。それはやはり、命というものだけが生み出せる感動と思われた。しかし、近くの小川に散っていった彼等と別れてからは、生きたペットはいなくなった。
   オカリナ教室の発表会は毎年秋に開催されるのだが、演奏する曲の選定と練習は早々と春に始まる。ここでオカリナ(メーカーなどによってはオカリーナとしているところもある)についてちょっと触れておくと、イタリア発祥の土笛で、その形状からガチョウの子・ちっちゃなガチョウと名付けられた。(そういえば日本には昔から鳩笛があった)。歴史が浅いこともあって、オーケストラの演奏に使われることはない。が、日本では近年、手軽な楽器としてけっこう広まっている。
   春から夏へ、いくつかの難曲をこなすのに四苦八苦しているうちに、オカリナが命ある小鳥のように思えてきたから不思議である。もともと笛の音色は澄みきった秋の冷気の中で最も美しく響くと思うのだが、オカリナも例外ではない。ただ、長時間続けて吹くと呼気中の水分がこもって音の出が悪くなる。そんな時はご機嫌が悪くなったな、と舌打ちしてほかのに乗り換えるしかない。でも、好調時のオカリナは青い鳥さながらに人の心を癒やす。
   今後何年吹けるかわからないが、教室の仲間と和気藹々、美しいメロディーとリズムとハーモニーを求め続けようと思う。朗々と、堂々と、嫋嫋と、勇壮に、哀切に、歯切れよく、活発に・・・。さきごろ台湾へ旅行した孫娘がくれたおみやげのオカリナには楽譜がついていて、「古老的大鐘」や「奇異恩典」などの曲名がまるでクイズのようについていて面白い。
( 2012/10/28 )

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