第54話 : エッセイ
2011/8/29


full denture



  上旬の予定が過ぎ中旬になってもぼくは生まれませんでした。昭和が二桁になったばかりで、胎児の性別もくわしい様子も分からなかったはずです。27日の未明になってやっと生まれたのですが、それは大変な難産だったそうです。オギャーと生まれた、と言いたいところですが、逆子で、しばらくはウンともスンとも声を出さず、唇が紫色に腫れ上がっていたそうです。満3歳半の兄がいることだし、母親さえ助かれば子はまた作れると思ったと、後年聞かされたことがあります。
  しかし、Thank God ! ほどなく紫色の唇に朱がさし、文字通りの赤子になったぼくは泣き声をあげはじめたのです。両親の喜びたるや半端でなく、その証拠にぼくは金太郎と名付けられてしまいました。主唱者はオヤジであったとぼくは睨んでいます。時に父41歳、母26歳、2人の異母姉13歳と8歳、実兄3歳でした。因みにこの年の日本人出生者は219万704人であったと物の本にあります。
 
  桃太郎と金太郎と勝負することなし
  されどああ少し金太郎好き
           −− 馬場あき子
 
  順当にいけば話はここから金太郎がらみでどんどん展開するところでしょうが、今日はポイントをちょっと切り換えます。べつに自虐的になっているわけではありませんが。
  蘇生したような誕生ぶりのぼくでしたが、逆子と関係があるのかどうか、右足が僅かながら左足より小さく、長さも数ミリ短く生まれたことに成人してから気がつきました。そして、両手の小さいことといったら!ピアノで10度をカバーしたというリストの手に比べると、ざっと半分くらいかな。で、下手でもオカリナを吹くしかないのです。(先生、ごめんなさい)。しかしこのことでこれっぽっちも両親を恨んではおりませぬ。
  さてと、母のことなんですが、讃岐の海辺で育った彼女はその上に父親の頑健さも受け継いでいたらしく、苦労しながらも91歳まで生きました。次男のぼくに対しては、拾い物をした気分でか、母乳をずいぶんとながらく与えたようです。それは、妹が生まれるまで5年近くあったこともあるでしょう。ついでに思い出すのは、食べ物の乏しかった当時、おやつとして広く食べられていた空豆のことです。焙烙で煎ったあの豆を母は時々、口元に香ばしい匂いを漂わせながら、おいしそうに食べていました。堅すぎてうまく噛めないぼくはよく、「ニャンニャンして」と母にせがんでは母の口中での加工品をもらったものです。おいしかったなあ。
  そんなこんなでぼくの歯は丈夫には育たなかった。しかも不養生でした。何本もの歯を一度に抜かれるばかりか、歯茎を縫われて二三日間は糸が口の奥でブラブラしていたこともありました。あげく、53歳になると上も下もきれいさっぱり総入れ歯になりました。ただ、会社の一角で立派な歯科クリニックを経営し、手間のかかる義歯をこしらえてくれたドクター Y にはいくら感謝してもし足りない気持です。なにしろ、以後は一度として虫歯になったことがないのですから!
  面白くもなんともない他人の口の中の話によくぞ付き合って下さいました。ところで ・・・ そもそもこの「ふみよむつきひ」を始めたのは、10年前にさかのぼる巨匠團伊玖磨の中国での客死がきっかけでした。出張先の北九州で愛読書「パイプのけむり」終巻を読了し、第1話<「パイプのけむり」断想>を書き始めたのでした。
  この機会に、「パイプのけむり」初巻にある<義歯>をご紹介しておくと、友人が小さくもない義歯をあっという間に呑み込んでしまい ・・・ その顛末をユーモアたっぷりに描いています。更に「なお パイプのけむり」所載の<車中>では、新幹線グリーン車の中でダダをこねてハタ迷惑な男の子を、「夕鶴」の巨匠が総義歯を駆使していかにとっちめたかを活写しています。ぼくが「パイプのけむり」に限りない親しみを覚える所以でもあります。
  又、Jim Davis の漫画 Garfield をご存知なら話は早いのですが、彼同様の怠け者でいつも腹ペコの親父が寝そべったまま、自分の入れ歯を冷蔵庫に向かってほうり投げ、たしか、「おいしい物を取って来い!」とどなっている図も思い出されます。総じて、このように入れ歯談義には微苦笑をさそうものが多いように思います。入れ歯の人がラジオで喋っていると、よく、かすかにカチカチと音がするのはなんとかご愛嬌ですませたいものです。一方、ぼくは入れ歯になって口笛が吹けなくなりました。が、入れ歯接着剤のテレビ・コマーシャルで「口笛もらくに吹けます」というのにはまだお目にかかったことがありません。
( 2011/08/29 )
 
 
  
 
 

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