第47話 : エッセイ
2010/12/19

独身寮の頃
  コンクリート造りの新館では、長い廊下の片側に個室が並んでいた。廊下の一方の端は階段、そのすぐ隣が洗面所兼トイレ兼洗濯室になっていた。もう一方の端は行き止まりになっていた。もしかすると非常出口になっていたかもしれない。個室は一応洋室で、リノリウム張りの床だが、誰の部屋もたいがいうっすらと埃をかぶって白っぽかった。入って正面がガラス戸というか窓で、たぶんカーテンがついていた。左手の壁際には洋箪笥と畳一畳を敷いたベッド風寝床が、右手の壁には棚つきの机と押入れが作り付けられていた。テレビはなかったので、見たい時は旧館の応接室へ行って群がって見るのである。それ以上は狭く出来ないような個室だったが、寝るだけにあるというぐあいだったから、けっこう住めば都、なのであった。食堂・風呂・娯楽室・館内放送・テニスコートなどについては割愛させていただく。
  入社2年ちょっとの私の月給が2万円に満たなかった、50年も昔の話である。この在京大型独身寮へは各地からさまざまな才能をひっさげた若者が入寮してきた。関西で生まれた商社だから神戸や大阪の出身者が多かったのは当然だが、東北とか北関東の訛りも聞かれた。大和から来た田舎者の私は、どこかの工場見学か何かの時、バスの中で配られた冷たい飲物のフタの開け方が分からなくて、慶応出の同期に教えられ、ひそかに恥ずかしい思いをした。
 


  街には 「アカシヤの雨が止む時」 が至る所で流れていた。私は寮で数室さきの某先輩とは不思議と気が合って、好きなこの歌を耳にしながらウィスキーの水割りをなめ、タバコをふかしつつ、横に座ってくれる女性ととりとめのない話が出来るアルバイト・サロンへ一緒によく出掛けたものだ。忘れもしない、このアルサロは 「ローマの休日」 と言った。1960年、新安保条約が強行採決され、チリ津波が起き、浅沼社会党委員長が刺殺された。東京都の昼間人口は1千万を突破した。今にして思えば世の中は泡立っていた。
  ある夜、先輩の部屋でだべっていてだいぶ夜も更けた。すると、先輩の貧乏ゆすりがハタとやみ、「腹へったなぁ」 ときた。私も全く同感。しかし今から食堂へ行っても仕方ない。見回した先輩は棚の高いところに何かの箱を見つけ出し、本の間から取り出すとフーッと埃を吹き飛ばし、手でこすった。なんと、二、三年前からそこに鎮座していたのは贈答用函入りの羊羹。こいつは絶対腐らないから食べても大丈夫、とか言いながら、二人は有難くかぶりついた。隅のほうはとっくに固い砂糖になっていて、カリカリと音がした。うまかった。翌日の夜先輩が話してくれたところによると、いささか気になったので羊羹のメーカーに電話したが、そこは倒産したらしくもう存在しないとのことだった。後年、先輩は野球をやって打席から三塁に向かって駆けたことがあると別人から聞いた。
  年をとるにつれて思い出は豊かになる。青春・恋・旅・趣味・食・・・。近付いてきた思い出づくりの新しい年を歓迎しよう。
 
追伸 東京スカイツリーは本編とは何の関係もないが、12月1日撮影したもので、この日はじめて 500 m. を抜き、511m. に達した。
 
( 2010/12/19 )
  

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