第43話 : エッセイ
2010/8/6
よしなしごと
    
 
   暑中御見舞申し上げます。こう暑いと、出好きの私もさすがに外出はためらわれます。まあ、ためらっていられるのは年金生活者の特権ですがね。エヘヘ。−−さてと、先月のある日、テレビの 「徹子の部屋」 では著名な美貌のオペラ歌手がゲストでした。彼女のソプラノを大ホールで何度か聴いたことがありますが、それはもう、天来の声というべきか、その美声に誰もがうっとりと魅せられること、間違いありません。今回はしかし、彼女の魅力について話すのは本意ではなく、イタリア人である夫君について彼女がちょっとしゃべったことに関してなのです。
   彼女が言うには、夫はいま日本語を一生懸命に覚えようとしているところだが、日本語では同じものについていくつもの言い方があって厄介きわまる。それを覚えるエネルギーをほかのことに回せばもっとずっと賢くなれるだろうにと言っている、というのです。わが意を得たり! と私は内心手を打ちました。もうじき2歳になる息子の教育のためにも早く日本語が上手になりたい、それなのに・・・ 彼の気持は痛いほど分かりますし、日本語を母語としないで育った外国人の大半は同じように感じていることでしょう。




   例えばの話、「行く」を覚えても、「赴く」だの「参る」だの「向かう」だのに出くわすと困ってしまいます。あす・あした・みょうにち・も同様です。こんなさまざまな言い方を覚えるために費やされるエネルギーが不要となり、他の目的に転用されるならば、すごい事が達成されるでしょう。思想・哲学・科学などの発展なんて高尚なところまで行かなくても、身近な日本語の向上ということを考えてみても、会話やスピーチや手紙で今よりもっとウィットのきいた、比喩の巧みな、豊かで正確な日本語に変えられることでしょう。但し、ことわっておきますが、私は旧来の日本語における言葉の陰影・情緒・雰囲気・滋味・香気といったようなものは出来るだけ残って欲しいのです。本エッセイのタイトル「よしなしごと」も、まだ完全に錆び付いてはいないと思っているからです。しかし、両立させるとなると、悩みは大きい!
   それから、話は前後しますが、同音異義語の多さときたら、人泣かせを通り越しています。パソコンを使う誰もが知る様に、クリックするたび、異義語のあまりの多さにあきれ、怖くなります。それは低俗な駄洒落が日本中を飛び交うことを可能にしています。寄生虫が帰省中だったりして・・・。その上、略語の氾濫もあって、人の声を聞くたび、適切な語を選び出すために聞き手は余計なエネルギーを使わされているような気がしてなりません。ほかにも、日本語の特徴としてはカタカナ・ひらがな・漢字の存在、さまざまな書体、男言葉と女言葉、敬語、方言、縦書きと横書き等々、きりがないくらいです。
   総まとめ的に言って、これは 「何かをすることによって解決すべき」 問題なのか、それとも 「日本語の宿命として諦観すべき」 事象なのか、私はその答えすら持ち合わせません。語学者の間で定説のようなものがあるのかどうかも、浅学にして知りません。グローバリゼーションが広い分野で加速する中、日本語はどこへ行くのでしょう。ヒマラヤの小国ブータンでは数十年来、GDP や GNP でない GNH (国民総幸福) を唱えて新しい国づくりに取り組んでいるそうです。
 
( 2010/08/06 )

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