例えばの話、「行く」を覚えても、「赴く」だの「参る」だの「向かう」だのに出くわすと困ってしまいます。あす・あした・みょうにち・も同様です。こんなさまざまな言い方を覚えるために費やされるエネルギーが不要となり、他の目的に転用されるならば、すごい事が達成されるでしょう。思想・哲学・科学などの発展なんて高尚なところまで行かなくても、身近な日本語の向上ということを考えてみても、会話やスピーチや手紙で今よりもっとウィットのきいた、比喩の巧みな、豊かで正確な日本語に変えられることでしょう。但し、ことわっておきますが、私は旧来の日本語における言葉の陰影・情緒・雰囲気・滋味・香気といったようなものは出来るだけ残って欲しいのです。本エッセイのタイトル「よしなしごと」も、まだ完全に錆び付いてはいないと思っているからです。しかし、両立させるとなると、悩みは大きい!
それから、話は前後しますが、同音異義語の多さときたら、人泣かせを通り越しています。パソコンを使う誰もが知る様に、クリックするたび、異義語のあまりの多さにあきれ、怖くなります。それは低俗な駄洒落が日本中を飛び交うことを可能にしています。寄生虫が帰省中だったりして・・・。その上、略語の氾濫もあって、人の声を聞くたび、適切な語を選び出すために聞き手は余計なエネルギーを使わされているような気がしてなりません。ほかにも、日本語の特徴としてはカタカナ・ひらがな・漢字の存在、さまざまな書体、男言葉と女言葉、敬語、方言、縦書きと横書き等々、きりがないくらいです。
総まとめ的に言って、これは 「何かをすることによって解決すべき」 問題なのか、それとも 「日本語の宿命として諦観すべき」 事象なのか、私はその答えすら持ち合わせません。語学者の間で定説のようなものがあるのかどうかも、浅学にして知りません。グローバリゼーションが広い分野で加速する中、日本語はどこへ行くのでしょう。ヒマラヤの小国ブータンでは数十年来、GDP や GNP でない GNH (国民総幸福) を唱えて新しい国づくりに取り組んでいるそうです。
( 2010/08/06 )
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