第30話 : エッセイ
2009/7/30

河合隼雄先生を偲んで





その一 ・・・・ ロールシャッハ・テスト
 
  それは、新館2階の廊下に置かれたひとつの机をはさんでのことだったと思う。一対一で向き合って座った先生は、奇妙な図形のページをひろげて、「これ、何に見える?」と私に訊いた。蝶々、と答えたと思うが、ほかには?と次々訊かれ、想像をふくらませて三つも四つも答えた。いやー、びっくりしたなあ、と思う間もなく別のページが示され・・・・
  時に昭和27年(1952年)、場所は奈良市法蓮町の奈良育英学園、京大を出たての河合隼雄先生24歳、こちらは17歳の高校2年生。紙にインクを落として作った左右対称のあいまいな図形(しみ模様)を被験者に見せ、何に見えるかの答えにより、その人の性格や心理的抑圧などを判断する検査法がロールシャッハ・テストである。考案したスイスの精神医の名がついているが、インクブロット・テストと呼ばれることもあるそうな。
  「あの時代に、ロールシャッハ・テストを受けた高校生は日本中で我々が最初じゃないか」と同級生は先生の思い出を語るたび、うれしそうに話すのである。先生も当時をふりかえって、「わが生涯の最良の年」と著書《未来への記憶》に書いておられる。きょう、ヤフーでロールシャッハ・テストを検索してみたところ、自分でテストを受けられるようになっているのには驚いた。思えば、あれから半世紀が過ぎている。そして、先生はおととし79歳で他界された。
 
その二 ・・・・ 先生のやさしさ  
 
  数学大嫌いの私に、明晰でごまかしのないスカッとしたものを知らしめてくれたのは河合先生だった。とりわけ二次方程式の図解などを板書する先生は「うまいっ!」と思った。楕円の定義をはじめて知って、目を丸くした。高2の夏休み、進学希望者は先生に引率されて伊勢の海にほど近いお寺に数泊し、特訓を受けた。数学嫌いがどんなに小さくなっていたのかは忘れたが、切り分けて下さっている先生の前でそのスイカのヘタに落書きして、「そういうのを邪道と言うんじゃ!」と叱られたことはいまだに覚えている。
  河合先生から私が一番学んだことは、物事の明晰な解釈の仕方というか割り切り方とでもいうか、であり、そのための論理的思考の新鮮さはたまらない魅力であった。当時の学校の雰囲気は、最初の授業で黒板に hymen と大書し滔滔と論じた社会科の先生がいたように、自由闊達な空気に満ちていたように思う。そんな中で、何の悩みもなさそうに、細い目でいつもにこやかな河合先生を毎日見て、私は私なりに目から鱗が落ち、心中にある決心をしていた・・・・
  受験勉強の書き入れ時ともいうべき高3の夏休みが来たが、私は補習授業を無断欠席し、2駅さきの病院に入院してそけい部ヘルニアの手術を受けていた。おやじを説き伏せ、道具と衣類少々をいれたバケツをぶらさげておやじと電車に乗ったのだった。ながい間の悩みとためらいにピリオドを打つのだ、と心を決めると、大学など二の次に思えた。
  手術の翌日からは、当時のこととて冷房のない病室でウンウンうなりながら痛みをこらえた。上の妹は、部屋に入るなり失神しそうになったと後日打明けたほどだ。しかし私の心は晴れ晴れしていた。この世で臆することはもう何もないのだ、と。今にして思うのだが、誰にも打明けないで抱えていた悩みは、考え方をヒョイと変えれば、たわいのないハシカみたいなものだったのかもしれない。とにかくこの悩みは河合先生にも話したことはなかった。しかし、私を入院へと走らせたのは、紛れもなく河合哲学そのものであった。
  入院中のある日、なんと、河合先生がはるばる私の実家へ見舞いに来てくださったことを、私は翌日になって知る。暑い夏の日、やせてはいても先生は汗だくで近鉄耳成駅からの道を歩かれたに違いない。両親によれば、あり合せのサバの煮付けを先生はおいしそうに平らげられたそうである。先生が私のことをどう話されたのやら、一風変わったおやじが一体どんなことを先生に喋ったのやら、今は知る由もない。あの先生、のちに大臣になったんだよと話せば、泉下の両親はのけぞるに違いない。  
      
( 2009/07/30 )

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