第25話 : 書評
2009/2/23

「恋文」
 
 
  内田百閧フ「恋文」(中公文庫・2007年11月初版)を読んだ。気が向いたとき、寝床で眠りに落ちる直前に読むというぐうたらな読み方だから、えらい日数がかかった。中味はたった50通の恋文というなかれ、文庫本とは言え300頁以上もあって、よくぞ毎度こんな長たらしい恋文が書けたもんだとあきれるし、時代の違い(明治43〜45年)も大いに感じる。そう、一世紀前の話なのだが、古びない多くの真実が含まれている。
  これは往復書簡集ではない。栄造こと若き日の百關謳カは理屈っぽい文章を延々と綴った。そのエネルギーは一途な恋心であり、書けば書くほどそれはつのるのだった。だから、手紙は終わりそうでいて終わらない。そんなわけで、この本を読み終わった時の私は、読後感を言うよりはむしろ、読了感というか達成感みたいなものにまず襲われた。それはダン・ブラウンの「ザ・ダヴィンチ・コード」を原書で読了した時の感じに似ていた。
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  このホームページの第17話「ごちそうさま」で百關謳カに触れて以来、一年になる。その後平凡社の別冊太陽シリーズでビッグな「内田百閨vが出たほか、久世光彦の小説「百關謳カ月を踏む」が朝日文庫から出た。又、2008年2月に他界した文芸評論家川村二郎氏は「内田百陂_」で読売文学賞をとった方であると知った。このように私の小さな情報源からでも巨人百閧フ残したものの大きさがよくわかる。
  で、読後感というか書評はどうかと言うに、そんなもの何の役にも立ちそうにない、と思い知った。巻末にある歌人・作家の東直子(ひがし・なおこ)さんの解説が過不足なくこの本を語っていてさすがである。結局私としては、例によって、文中でハタと膝を打ったりクククッと笑いそうになったりした部分をいくつか抜書きするほかになさそうである。




  飯事中には先日も言うた通り箸の数が二本である事を疑ひました。五本の指は四つの空間を生む。箸がその二つの空間をのみ充たすについて、事のこヽに至った経過と因果がわからん。第二にお膳を前に据えるわけがわからん。人間の手は躯の側面から生えて居る結果・・・
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  一日に来た清さんの手紙に、東京で書いた僕の最後の手紙についた泪のかたに清さんの泪のかたが重ってと言ふやうな事が書いてあった。僕は何時も清さんへの手紙を机の上で書いて居た。たヾあの手紙だけは床の中で書いて、巻紙が顔の真下にあったもんだから、目から落ちる泪はほたほたと巻紙の上にしたヽった。
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  (又汽車が来た)蚤が食ふから捕ってやった。
● ココヘヒッツケテオク墨デナシクリツケタ
 
  百年を経て刊行されることとなる膨大なラヴレターを受取った堀野清子は、結婚後百閧ェ家を出て別の女性と暮らすようになった後もそれらを大切に保管していたという。彼女が書き残したものはないのだろうか。
 
( 2009.02.14 )
 
 

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