= 第24話 : エッセイ =
2009/1/17

月 ( THE MOON )


   近頃の大学生に月とアメリカとはどちらが近いかと訊くと、月のほうが近いと答えるそうです。月は見えるけれどアメリカは見えないから、だとか。詭弁って言うんですかね、「飛ぶ矢は止まっている」 たぐいの話ですが、どことなく惹き付けるものがあると思いませんか。
   去年の春の、親友のあっけない他界はこたえました。以来、なにかにつけて心弱りし、うじうじとたそがれている自分に何度も気付いては、そのたびはっとしました。死んだら紫色の煙になってしまうんだ、それだけなんだ、そうも思えて時々空の高みを見上げました。そのうち私は、空にぽっかりと浮かんでいる月に思いを寄せることが多くなりました。いつまでもへこんでいてどうする、と月に諭されたようにも感じました。
   冒頭の話ではこちらから月を見るわけです。古来、月ほど人がさまざまな思いを寄せたものは少ないでしょう。月が鏡であったならとうたい、月光の曲が生まれ、かぐや姫を迎える使者が月から来、などなどきりがありません。そしてついに、月の出ならぬ月から見た 「地球の出」 の映像をテレビで見られたのは去年のことでした。
   関西の中学生の時代からのこの友が東京へ転勤して来たのと、私があちこちの海外駐在や出張の時代に入ったのとは相前後していました。そうして二人はよく会い、語り、展覧会や劇を見、飲み歩いたものです。が、彼に代わる者はもういません。そんな喪失感が今まで以上に私を月に向かわせたのかもしれません。
   いま、仮に月を擬人化出来て、月が地球上の人間を識別し得る途方もない眼を持っていたとするなら!月は少年時代の私を見ていたどころか、四国の海辺を走り回っていた幼い頃の母も、アルプスを越えるナポレオンをも見ていた筈です。いや、そうに違いありません。無口な月は黙っていただけです。人類の、古い古い友であるお月さん。
   なんだかんだと言っても、見えるものはやっぱり頼りになります。昔から自分を知ってくれている月、これからも確実に会える月、世界のどこででも顔を見せてくれる月、これまでも、これからも。人の一生が旅とすれば、鉄道唱歌にあるように、私達は 「月を旅路の友として」 生きてゆくのです。
( 2009.01.17 )
 


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