第17話  書 評
 
2008/1/20
ごちそうさま

両手合わせて 「ごちそうさま」 と言いたい気分で最後のページを読み終えた。名随筆・小説で広く知られる内田百關謳カの 「御馳走帖」 (中公文庫)はそれほど楽しく、美味しかった。
 
平山三郎の 「解説」 から
 
 明治22 (1889) 年備前岡山の造り酒屋に生まれる。一人っ子で、本名栄造。志保屋の若様が、と言われた子供時代を経て六高に進み、俳句に熱中、郊外の空川、百間川にちなんで俳号を百閧ニした。六高時代に夏目漱石に写生文を送り、褒められる。
 
 やがて東京帝大で独逸文学を専攻、大正5年陸軍教授任官、士官学校独逸語学教授。同9年法政大学教授。一方、宮城道雄に筝を習い、以後宮城検校との親交が続く。昭和4年、法政大学航空研究会の会長に推される。同8年刊行の 「百鬼園随筆」がヒット、大学を辞め以後文筆生活へ。同14年、日本郵船嘱託。同20年5月、空襲で焼け出される。同25年、還暦に摩阿陀会(まあだかい)の第1回を催し、同年大阪へ <阿房列車> で一泊の旅。同45年小説新潮の 「百鬼園随筆」 連載が終わる。同46 (1971) 年4月急逝。83歳。
 
サプライズ!
 
 上記の 「解説」 にこんなくだりがある。「小学校で教わったことは何もおぼえていない。学校から帰ってくるとカバンを掛けたまま母の膝に上がって水のような乳を飲んだことを覚えている。店の者から、歯がみんなぬけてしまうぞナ、とはやされたが止めなかった。」 − これを読んで、私は 「アリャー!」 となった。カバンこそ掛けていなかったが、4歳か5歳まで母に乳をせがみ、おかげではや中年で toothless になったからだ。大先生と比べて申し訳ないことながら、この一事で先生がぐっと身近に感じられるようになった。
 
 「芥子飯」 と題する一文は、先生、秋晴れの真っ昼間、小石川駕籠町のカフェーでなけなしの十銭をライスカレーに使い、あとは文無しで歩いて帰るほかなくなる話である。文中、先生が学生時分に行った汚い洋食屋をふと思い出すくだりがあって、「同学の太宰施門君と時時食ひに行って、その店をカフェー・マンヂャンと愛称した。」 とある。再び 「アリャー!」 である。たしか大学1年の時に数回フランス語の講義を受けた太宰先生の名が、こんなところで突然出てきたのにはびっくり。後年、男の子が生まれたらシモンとかレイモンを漢字にした名をつけようねと妻と話し合ったのは、なにを隠そう、太宰施門先生の名に憧れてのことであった。
 
尽きぬ滋味
 
 百關謳カは永年、朝は牛乳にビスケットにリンゴ、午はもり蕎麦、そして夜は山海の珍味を大いに食するのを常とした。
 
 「ビスケットは英字の形をした余りあまくないのを常用してゐる。アイやエルは劃が少ないので口に入れても歯ごたへがない。ビイやジイは大概腹の穴が潰れて一塊りになってゐるから口の中でもそもそする。さう云ふ色色の形を指先で選り分けて摘んで食べる。」
 
 さすがにドイツ語の先生である。ともあれ、こうした滋味豊かな文章で、頑固一徹と皮肉と飄逸さをにじませて、戦前から戦中・戦後の食生活が縦横に語られている。時折出てくる配給時代のことは、私にもかすかな思い出があって、隣組長さんちのひんやりと暗かった土間が今でも蘇る − 痛快とばかりは言っていられないのである。
 
 最後に、10年以上も前に観た黒澤明監督の映画 「まあだだよ」 (1993年) をちらちら思い出しながら、「御馳走帖」 に出てくる独特の用語を使って私なりの作文を試みた。
 
 「このほど沙市(シアトル)から帰国した何樫君(読み方に注意)を皆で歓迎すべく、ボイ(ボーイのこと)に命じて三鞭酒(シャンパン)を運ばせた。これを飲むのは先日の進空式(進水式の誤りではない)以来のことである。卓上にはチース(チーズのこと)も出ていた。」
 
( 2008/01/19 )
 



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