【第12話 : エッセイ 】

遠い昔、そして今
2006年 4月 9日


戦局が日増しに緊迫化していた、昭和18年ごろの話である。歴史の古さが唯一の取り柄と言えそうな関西の小村が太郎のふるさとなのだが、そこの国民学校でも、太郎の学級へ大阪から転校してくる者たちがいた。親類を頼っての疎開である。
 
今、彼等のことを思い出すと ─ チビのU君はすばしっこくてきかん気で、喧嘩したら負けそうだな、と気の弱い太郎は思った。しかし喧嘩の記憶はほとんど なく、屋根の上で日向ぼっこしながら食べた弁当の時間に、黒い豆の入った餅をもらってすこぶる美味しかったのを覚えている。色白で背の高いN君はいかにも都会的な雰囲気と物腰が魅力的で、今で言えばSMAPの草剪君みたいだったが、いかんせん大きな後頭部が見事な絶壁だったため、皆から「カベ」と呼ばれていた。初めはそう呼ばれるたびに怒っていたが、そのうちあきらめた様だった。いきさつは忘れたものの、太郎は一度大阪の街中にある彼の実家へ遊びに行ったことがある。二階に童話や物語の本がどっさり並んでいて、太郎はうらやましくもあり、世間は広いなと思ったことでもある。それから、疎開者には、確かFさんと言った、臈たけた感じの美少女もいた。太郎は、学芸会で自分が源頼朝の役を演じた時の万寿姫がMさんだったことは忘れもしないが、そのころFさんが疎開して来ていたのかどうかは定かでない。MさんとFさんは親戚だと聞いたような気もする。ともかく太郎は、Fさんについては、切れ長の大きな眼くらいしか思い出せない。
 
いま一人、神戸から来たM君がいた。太郎よりかなり背が高く、しかし痩せていて、おとなしい鹿の様な眼をしていた。半ズボンから突き出た長く細い脚がズック靴をはいているのがいつまでも太郎の印象に残っている。M君は病弱だった。そのことについては、お母さんからか本人からか、「室戸台風の時の水害のせいで・・・ 」と太郎は聞いたように思うのだが、時間的に辻褄が合うのだろうか、よくは分らない。
 
M君一家は学校の南東の方角にある集落に住んでいた。が、ちょっと変わっているのは、その集落の端にある至極小さな山の頂上の、御厨子(みずし)神社がその住まいだったことだ。下から見上げる石段は百段以上あったかもしれない。その両側は林というより森に近かった。季節によって森は表情を変えた。
 
一方、太郎の家のある集落はあいにくなことに学校の北西方向にあって、旧い街道筋にあった。M君と太郎が不思議に気が合ったのは、どちらも読書好きなおとなしい少年だったからだろう。疎開してきた子供達は、ほとんど例外なく、しゃれた文房具を持ち、上等な靴をはき、図鑑や絵本を含めていろんな本を持っていた。中でもM君の持ち物は太郎にとってはまるで発見の連続といってよかった。借りてむさぼり読んだ本のなかには「古事記」やら「クオレ」やらもあったと思う。
 
ある時、山上のM君宅の周囲の木立から、透き通った女の歌声がかすかに太郎の耳に届いた。歌の意味は分らないながら、どうやら賛美歌らしいと察しがついた。そして、歌っているのはM君のお姉さんに違いなかった。その上、会った記憶もないのに、美しい人に違いない、と太郎は思った。その日、生まれてはじめて賛美歌というものを聴いたのだと、太郎は後年になって気付いた。
 
太郎が自転車でM君宅へ遊びに行ったのは、それでも、十回もなかったかもしれない。戦争が終わり、M君は神戸へ帰って行き、太郎もやがて遠くの私立中学へ電車通学を始め、地元の小学校・中学校とは疎遠になると共に、M君ともいつしか関係が途絶えてしまったからだ。いま、古希の年齢になって、懐旧の念抑えがたく、といって具体的に行動を起こすでもなく、何かしら悶々とした自分を感じている太郎である。
 
終戦直後、聞こえにくいラジオから毎夕、「尋ね人の時間」というのが放送されていた。60年前のそのことを思い出すにつけ、似たような「現代版尋ね人の時間」はあり得ないものだろうか、と考える。進行する社会の老齢化。あちこちで孤独死のニュース。旧知旧友を懐かしみ、居所さえ分かればいとせめて文通だけでもしたいと願っている人は存外多いのではないか、というのが太郎の理屈である。



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