第52話 : エッセイ
2011/5/30
発想を転換する
  蓄えがそろそろ気になり出す頃、人は考え方が柔軟になるというか、発想をいささか転換できるようになる。らしい。あれもこれも買いたいが、手元不如意である。その上、買ったところで何回か使うとじきに飽きるし、そうなると保管場所にすら困るのが常である。経験からそれを知っている。図書やCD、カメラや家電製品、絵の道具、楽器のたぐい、アルバムやらもろもろのファイルやら・・・せまい書斎の中で、私の持ち物がじわじわと包囲網を縮めてくる。なのに戦前生まれの私は簡単に物が捨てられない。
  
   ならば買わなければよいのである。では、どうすれば買いたい気持の爆発を抑えられるかというと、店頭なりインターネット上なりのあの商品は自分が預けたもので、いつでも使いたいときには使えるのだと自分に言い聞かせ、信じ込ませるのである。そこまですっきり転換できなくても、例えば図書館の本のことを考えると、この発想の中間点にある様に思えないだろうか。つまり、これらの本は自分の物ではないが、半分は自分の物のようで・・・。それにつけても、若い時から図書館とか古本とかをあまり利用してこなかった私は、今頃になってその不器用さ(?)を悔やんでいる。げに習慣はおそろしい。話がちょっと横道にそれたので戻すと、発想を上手に転換できれば、映画やテレビの美男美女俳優は自分の親類にしてしまえるし、子のない人は子役やよその子を自分の子のように見られることだろう。「人類みなナントカ」よろしく、である。
  
   発想の転換といえば、古典落語「長屋の花見」だってその一例と言えるかも。大家の発案で貧乏長屋の住人がそろって上野の山へ花見にくり出すのだが、ながらく家賃が滞っている一行のこと、沢庵を玉子焼きに見立て、一升瓶の中味は番茶を煮出して水で薄めたものだ。かまぼこは大根の漬物だから、周囲に聞こえないよう音をさせずに噛むのに苦労する。
 
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   このところ広く読まれている曽野綾子著「老いの才覚」(KKベストセラーズ)には、発想の転換と呼びたいような考えがたくさん述べられている。「たとえどんなひどい目に遭っても、老年のよさは、それほど長く生きていなくて済む、ということでもあるのです。」と言うかと思えば「諦めとか禁欲とかいう行為は、晩年を迎えた人間にとって、すばらしく高度な精神の課題だと私は思うのです。」とも言う。
 
   後期高齢者医療制度の適用を75歳からとしたのは<実に妥当な線引き>だと彼女が賛同しているのには私も全く同感。それは先日76歳に達した実感からである。そして、「明日の保証はない、と覚悟する。これは老年の身だしなみなんです。」のご託宣にハハーッとひれ伏すのである。
 
   ところでこの本が与える感動のひとつに触れるならば、巻末で著者が紹介しているブラジルの詩人の作品は、意図してか偶然かは全く不明のまま、カギとなるおしまいの一行が、めくった最後のページに出ているのだ!
 
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   地方紙の随筆コーナーで先月、志賀泉という小説家の一文に出会った。今回の震災以後、含蓄のある「死んだって一回」という言葉をよく思い出すそうだ。子供の頃、東北の大人たちがよく口にしていた由で、東北人の図太さを感じさせる、こんなとてつもなく強い言葉を持つあの地が再生しないはずはないと熱いエールをおくっている。私達も応援しよう。
 
( 2011/05/18 )
 
 





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