第65話 : エッセイ

忘れ得ぬあれこれ
 
加齢とは年老いることである。「老化」の忌み言葉的に使うことが多いと説明している辞書もある。加年という言い方もあるらしい。いずれにせよ、出来たら遠ざけておきたい気がする言葉である。誰しも、その先は、と考えがちだもの。そこへ間の悪いことに加齢臭なんて言葉が威張りだしたものだから、長年夫のタバコ臭さに悩まされた妻が、こんどは新たに、退職してタバコをやめた夫の加齢臭と付き合わされるというケースも多かろうと思う。
 
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   めっきりものぐさになった。好奇心旺盛な方だった自分が、近頃は新しい物事にあまり気乗りがしない。あれこれと経験を積んだせいか、新しい刺激に対して鈍くなっている。ああすればこうなる、ああ言えばこうやり返される、と今から答えが分かっている。分かったつもりになっている。時には、それがちょっとした喜びであっても。一方、老化のしるしは容赦なく押し寄せてくる。まさに<老来万事に物憂い>境地である。
 
   そのへんのしくみは、こうも考えられないだろうか。人は一人一人が一定の引き出しを持っていて、年を経るにつれそれらの引き出しには記憶が詰まっていく。インプットされた記憶は時・場所・音・色彩などなど様々な要素によって整然と仕分けられファイルされている。仮に友人が暑気払いに新宿の屋上ビアガーデンへ行こうかとさそってきても、記憶の回路から何回かの体験が即座によみがえってきて、思いのほかはずまなかった会話や痩せた枝豆のことや周りのテーブルの騒がしさまでがフラッシュバックし、そうねェ、又いつか、と引いてしまったりするのである。
 
   そんな引き出しが次第に詰まっていって、少々重いぞ、もうじき満杯かなと気付くころ、老境に入っているのではなかろうか。だからといって、思い出づくりの旅だの自分探しの温泉行だのに出ることも、もうないのかと嘆くことはあるまい。記憶は滋味豊かで、反芻するに十分値するばかりか、そこから新しい知恵を汲み出すことも出来るからだ。<月日は無惨に過ぎた>とは思いたくない。「うららかにきのふはとほきむかしかな」(久保田万太郎)からは、老いの若やぎといった心境すら感じられる。
 
   そうであるならば、老人の栄養源の一部は思い出ということになる。忘れ得ぬ人、懐かしい風景、古い日記から、まぶたの父母、よみがえる舞台、あの日の出会い、エトセトラ。アルゼンチンの詩人・小説家ボルヘスは、「人も七十を過ぎたら昔話が許されるだろう」と言ったそうで、私もそのひそみにならうこととする。ただ、細々と綴ってきたこの「ふみよむつきひ」の紙幅が(パソコンの能力として)いつ尽きるのか、見当がついていないこと、ならびに私がもはや喜寿であることは打明けておく。
 
   今日は口上だけで日が暮れた。暑苦しい毎日、諸賢におかれてはくれぐれもお大事に。
 
( 2012/07/31 )
 
   
忘れ得ぬあれこれ
更新日時:
2012/07/31
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2012/07/31

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Last updated: 2012/8/1

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